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落ちて来た葉っぱ



     一

「竹たけちゃん、おら、もうまぁ去いぬるけん。ほんでも、今日は久方そうたいぶりに竹ちゃんに逢あえて楽しかった」
 お志乃しのは名な残ごり惜しそうに竹蔵たけぞうの手を握りしめると、竹笊たけざるを胸に抱えた。
 ここ伊予いよの国くに大おお洲ず領内にある内うちノの子こ村むら六むい日か市いちでは月に六度の市が立てられる。今日はその市の日で、お志乃の笊の中には市で買った干し魚と海草が入っている。世話になっている庄屋の屋敷で言いつけられたものだ。
 一方の竹蔵はろうそく職人の見習いで、この日は親方の遣つかいで寺社を廻まわって燃え残りのろうそくを譲り受けている。手に持った風呂敷の中身はろうそくの屑くずだ。
「おらも楽しかった。次にお志乃ちゃんに会える日が待ちきれんぜ。早はよお志乃ちゃんと夫婦めおとになって毎日一緒におられるよう気張るけんな」
 竹蔵が決意を込めて言うと、お志乃はにこにこしてうなずいた。
「期待して待ちよるけん。竹ちゃんじゃったらきっと腕のええ親方になれらい」
「ほん時はお志乃ちゃんにもろうそくの芯作りを覚えてもらわんとな」
 竹蔵がお志乃と微笑み合うと、二人の間に黄色いイチョウの葉が一枚ひらりと落ちて来た。お志乃はしゃがんでその葉を拾うと、不思議そうに竹蔵に見せた。葉を受け取った竹蔵はすぐ横にあるイチョウの木を見上げた。
 今は春なので、木陰はひんやりと少し肌寒いが日射しはぽかぽかと暖かい。その温ぬくもりの中、イチョウの枝には緑色の葉が芽吹き始めており、黄色い葉はどこにも見当たらない。全部冬になる前に散ったので今時期にあるはずがないのだけれど、実際に落ちて来たので二人は拾った黄色いイチョウの葉を改めて見つめた。
「これはきっと神さまが何なんも案ずることないて教えてくんなはったんよ」
 お志乃が嬉うれしそうに笑うと、ほうじゃなと竹蔵もうなずいた。
 二人が忍び逢っていたのは町中にある八幡はちまん神社で、拝殿の東脇にあるこのイチョウの木は御神木だ。落ちて来た葉っぱが神さまの気持ちだと思いたくなるのは当然だ。
「これはお志乃ちゃんが持っとりや」
 竹蔵は手に持ったイチョウの葉をお志乃に差し出した。
「ええの?」
「ええよええよ。お守りにして大事にしぃや。ほしたらこの先何があっても、ほの葉っぱがお志乃ちゃんを護ってくれるけん」
「竹ちゃんは?」
「おらは男やけん大丈夫ぜよ。おら、いっつもお志乃ちゃんのことが気になるけんど、神さまの葉っぱがあったら安心ぜ」
 お志乃はもう一度微笑むと大切そうにその葉を胸に仕舞った。
「じゃあ、行くけん」
 お志乃が拝殿の前に出ようとすると、ちぃと待ちやと竹蔵はお志乃を制し、木の陰から顔だけ出して境内けいだいの様子を確かめた。二人の仲は秘密なので、ここでこっそり逢っているのを誰かに見られてはまずいのである。
 いつもであれば境内で子供たちが遊んでいるし、神さまに手を合わせる者もよく出入りする。しかし今日は大人も子供も通りに立ち並んだ出店に集まっている。
 鳥居の向こうから賑にぎわいの声が聞こえてくるが、境内の入り口が狭く細長いので向こうからこちらはよく見えない。ひっそりした境内は神の隠れ家のようであり、人目を忍んで逢うには丁度いい。それでも油断は禁物だ。市が立てられていても神社へ来る者がいないわけではないのだ。 

     二

「お志乃ちゃん、ええぜ」
 竹蔵がお志乃を送り出そうとすると、商人風の男が鳥居をくぐって入って来た。竹蔵は行こうとしたお志乃を慌ててイチョウの陰に引き戻した。
 二人には気づかないまま手水ちょうず舎やで手と口を清めた男は、拝殿の前まで来ると賽銭箱さいせんばこに賽銭を五枚数えて投げ込んだ。箱の中を転がり落ちる賽銭の賑やかな音が響くと男は拝殿の鈴を鳴らし、二礼したあと両手を二度パンパンと打ち鳴らした。
「八幡はちまんさま。あたしん所とこも蝋ろう打うちを始めることになりました。どうぞ蝋の商いがうまくいきますように」
 誰もいないと思ったからだろう。男は願い事を声に出して祈った。
「銭五枚で何なに都合のええこと願ねごとるんぜ」
 男を盗み見した竹蔵が小声で八幡さまを演じると、お志乃は手で口を押さえて静かに笑い、潜めた声で言った。
「蝋打ちて儲もうかるんじゃね。蝋打ちする所とこがどんどん増えとるみたいなね」
 蝋打ちとはろうそくや鬢びん付け油に使う蝋を櫨はぜの実から搾しぼり出す作業のことだ。以前は東北とうほくの漆うるしの実が使われていたが、今は櫨の実でできるのでこの辺りでも蝋打ちをするようになった。作られた蝋は安芸あきや大坂おおさかにまで送られるが、漆の蝋よりも安価で質が高いと評判だ。といっても庶民には容易に手が出せない貴重で高価な代物である。
 ほんまじゃなと竹蔵が小声で応じると、男は拝殿に深々と頭を下げて鳥居へ向かい、そこで拝殿を振り返ってもう一度お辞儀をしてから表の通りに出て行った。

「よし、今のうちぜよ」
 竹蔵はお志乃に合図をしたが、三十路みそじを過ぎたと思われる女が鳥居をくぐって来たので、またお志乃を制して女の様子を窺うかがった。
 女は手早く小銭を一枚賽銭箱に放り入れると二礼してから二回柏手かしわでを打った。しかし鈴を鳴らすのを忘れていたのに気がつくと、慌ててがらがらと盛大に鈴を鳴らした。
「八幡さま、お願いします。どうか、うちの抜ぬけ作さく亭主の女癖を何とかしてつかぁさい。おらと一緒になる時には浮気なんぞせんて約束したのに、あちこちに女をこさえまくっとるまっこと大嘘おおうそこきのとっぽ作さくなんです」
 女も境内けいだいにいるのが自分一人だと思っているようで、さっきの男のように声に出して神に事情を話した。女に少し同情した竹蔵は、浮気をするような奴とはさっさと別れるがよいと再び八幡さまの真似をした。ちらりと横を見ると、お志乃が微笑んでいる。竹蔵は浮気などしないという信頼に満ちた笑みだ。
 二人は女が祈り終えるのを待ったが、女はぐちぐちと亭主への不満を述べ続けてなかなか立ち去ろうとしない。
「やれやれ。銭一枚でよう喋しゃべるもんだの」
 竹蔵が八幡さまの声で言うと、お志乃はまた楽しげに笑った。

 ようやく愚痴を終えた女が鳥居の向こうへ立ち去ると、すぐに老婆が入って来た。老婆は腰は曲がっておらず凛りんとした姿だ。結構いい着物を着ているので、どこかの店たなのおかみだろう。
 拝殿の前で手を合わせる老婆は、息子の病を治してほしいと涙ぐんで願った。何の病かはわからないが結構難儀な病と思われる。
 子を思う親の気持ちに胸を締めつけられながら話を聞いていると、老婆は息子が死んだら自分の世話は誰が見るのかと訴えた。面倒を見てもらうために育てたのに、それができないのであれば何のための息子だったかと言うのである。
 確かに年老いた親の世話をするのは子供の仕事だ。でも、だからといってこんなあからさまな態度を見せられては、病に伏せる息子は遣やる瀬ない気持ちになるに違いない。竹蔵はその息子を気の毒に思い、息子が病になったのはこの母親のせいではないのかと疑った。
「神に願う前に我が子をいたわるのが母親の務つとめであろう」
 八幡さまになった竹蔵が小声で老婆を諭すと、お志乃は黙ってうなずいた。しかし竹蔵の声が聞こえない老婆は息子の病を治すよう神に念を押して願い、ようやく境内を出て行った。

「よし、今ぜ」
 誰もいなくなった境内を見ながら竹蔵はお志乃に手を振った。
「ほんじゃあ、またね」
 竹蔵の横をすり抜けて拝殿の前に出たお志乃は、八幡さまに挨拶をして竹蔵に小さく手を振った。それから鳥居をくぐると、もう一度拝殿に向かって頭を下げて表の人混みに姿を消した。 
 お志乃を見送った竹蔵は拝殿の前に立ち、目の前に下がる綱を威勢よく引いた。鈴の音が騒々しく辺りに響き渡ると、竹蔵はいつものように拝殿に向かって二度お辞儀をしたあと柏手を二回打った。
「八幡さま。今日もお志乃ちゃんに逢あわせていただきありがとうござんした。どうか、こん次も今日みたいにお志乃ちゃんに逢わせてつかぁさい。ほんで一日でも早はようにお志乃ちゃんと夫婦めおとになれますように」
 どうぞお願いしますと竹蔵は両手を合わせて頭を下げた。
 竹蔵はろうそく師の見習いとして修行中の身であり、ろうそくを作っても銭はもらえない。だから賽銭箱に入れる銭を持っていなかった。
 いくら神さまでも銭を払わなければ願いは叶かなえてもらえないが、ない袖そでは振れない。それ故ゆえ、竹蔵は神さまが根負けするほど繰り返してお願いするしかなかった。
 お願いしますお願いします――と何度も何度も頭を下げていると、仕方しゃあないのと苦笑する八幡さまの姿が目に浮かぶ。それから、ありがとうござんしたともう一度頭を下げて境内を後あとにするのだ。
 この日も困った奴だと言いたげな八幡さまに礼を述べると、竹蔵は颯爽さっそうと鳥居をくぐって表に出た。

     三

 竹蔵とお志乃は幼なじみで、故郷は内うちノの子こ村むらから北へ二里りほどの山中にある石岡村いしおかむらだ。お志乃は一人娘で、近所に住む一つ年上の竹蔵を兄のように慕っていた。
 四人兄弟の末っ子の竹蔵は、眉毛が太く団子鼻で唇も厚い。兄弟はみんな褒められた顔つきではなかったが、竹蔵は兄たちによく顔のことをからかわれ、お前は捨て子だからと言われて泣かされた。本当に自分は捨て子なのかと親に確かめようと思ったが、そうだと言われるのが怖くて何も聞けなかった。
 けれどもお志乃は一度も竹蔵の顔を笑ったりはしなかった。兄弟がいないお志乃は竹蔵の後あとを追いかけ、いつも竹蔵の傍そばにいた。お志乃が離れないことで竹蔵はまた兄たちにからかわれたが、お志乃といると嬉うれしい気持ちになるので邪険にしたりはせず、遊び相手になったりしていろいろ面倒をみてやった。
 お志乃の父はお志乃が五つの頃に、きのこ採りをしていて山の崖から足を滑らせて死んだ。幼いお志乃は死というものがよくわからなかったが、それは竹蔵も同じだった。ただ昨日まで生きていたお志乃の父が急にいなくなったことは理解できたので、お志乃を慰め励ましてやりたい想いでいっぱいになった。
 父親がいなくなった分、お志乃の母八重やえはやらないといけないことが増えた。お志乃も母を手伝う仕事が多くなったので、竹蔵も暇があればお志乃と一緒に八重を助けた。事情がわかっているのと、竹蔵が末っ子だったからだろうが、竹蔵がお志乃の家の手伝いをしても親から文句を言われることはなかった。
 仲睦なかむつまじい竹蔵たちの姿を見ていた八重は、大きくなったら竹蔵の嫁にしてもらえとお志乃に言ったものだ。お志乃はその都度つど嬉しそうにうなずき、竹蔵も子供ながらに自分が一生お志乃の面倒を見ようという気持ちになっていた。
 そんな中、十年前の享きょう保ほう十七年に九州、四国、中国地方一帯が大だい飢き饉きんに襲われた。長雨とウンカの大発生によって麦と稲が壊滅し、二百六十四万以上の飢き人じんと一万二千を超える餓死者を出す大被害となった。飢人はここ伊予いよの国くに全体で二十八万に及び、大おお洲ず領では四万三千人が飢えに苦しんだ。
 竹蔵の家には祖母がいたが、この飢饉で祖母は死に、生まれたばかりの赤ん坊もすぐに命を失った。お志乃の家も食べる物に困ったが、竹蔵の家はお志乃たちを助けるゆとりなどなかったし、それは八重の親戚にしても同じだった。
 竹蔵は口にできる物が見つかればお志乃の分を残しておいた。全部を食べたいほどひもじかったが、お志乃にひもじい思いをさせたくなかった。けれどもそんな物で飢えをしのげるはずがなく、ある日、八重はお志乃を残して死んだ。食べられる物はすべて娘に与えての餓死だった。
 翌日になってようやく侍たちがやって来て、寺の和尚や神社の神主と一緒に飢えた者たちに粥かゆを振る舞った。あと一日早く来てくれていれば八重は助かったかもしれず、それが悔しくて竹蔵はお志乃を抱いて泣いた。

 独りぼっちになったお志乃は、庄屋宇兵衛うへえの頼みで竹蔵の家で世話をすることになった。必要な食べ物や銭は宇兵衛が工面してくれた。
 家族はお志乃の面倒を竹蔵に任せた。竹蔵は母を思い出して泣くお志乃を慰め、自分がいるからと励ました。そうして何年かが過ぎ、お志乃が十二になった年の春、お志乃の奉公先が決まったと言って宇兵衛がお志乃を迎えに来た。奉公先は石岡村からずっと遠くにある城下町の大洲で、そこへ行けばお志乃とは二度と逢あえないと思われた。
 竹蔵はお志乃は自分の嫁になるものだと信じていたし、お志乃もそのつもりでいた。
 宇兵衛の腕の中でお志乃が泣きながら竹蔵を呼ぶと、竹蔵はお志乃を取り戻そうとした。だが父親に殴られ、泣く泣くお志乃を見送るしかできなかった。
 お志乃がいなくなってから竹蔵は心に大きな穴が開いたように感じていた。泣いているお志乃を思い出すと大洲へ追いかけて行きたくなったが、子供の自分には何もできないとわかっていたので、ただ傷心の日々を送るしかできなかった。

 飢饉で跡継ぎを失った家もあり、竹蔵の次兄と三兄はそんな家に養子に出された。竹蔵も同じように養子に出されるかと思ったが、竹蔵はお志乃がいなくなった年の秋に、内ノ子村の山冨やまとみ屋やという紙問屋に奉公に出されることになった。
 内ノ子は大洲の東方約三里の盆地にあり、周辺の地域と往来するための往還おうかんが三本集まっている。この道を通って各地域の農産物や竹材、木炭、紙、楮こうぞ、三椏みつまた、櫨はぜの実などが内ノ子へ運ばれるのだ。
 往還以外にも内ノ子には水運の利があった。ちょうど内ノ子の所で東から流れて来る小田おだ川がわに北から来る二つの川が流れ込む。水量が増した小田川は南へ流れてもっと大きな肱川ひじかわに合流し、大洲を取り込むようにぐるりと回って伊予いよ灘なだへ抜ける。三本の往還に加え、この小田川を利用することで内ノ子は物資の集散地として大いに発展した。
 また大洲、松山まつやま、小田の三方向に街道が伸びているので、四し国こく遍へん路ろや金こん比ぴ羅ら参りをする者の姿も多い。そのため内ノ子は宿場町としても賑にぎわっていたが、月に数回立てられる市も多くの人々を内ノ子に呼び寄せた。とにかく石岡村とは比べものにならないほど内ノ子は人も多く活気があった。その中心となっていたのは紙問屋だ。
 大洲領内では古いにしえより紙の生産が盛んで全国的にも評判がいい。その紙が集まる内ノ子には山冨屋のような紙商人が多く暮らしていた。また紙の原料となる楮や三椏も集まるので、それを紙漉すきをする百姓に届ける楮仲買人もたくさんいた。
 紙で大儲おおもうけした商人たちはさらなる儲け仕事を探っていたが、そこで目をつけたのが製蝋せいろうだ。以前は東北の漆うるしの実で作られていた木蝋もくろうだが、九州きゅうしゅうで櫨の実でもできるとわかってから櫨を使った木蝋が広まった。その流れで内ノ子でも製蝋が行われるようになったのである。
 原料となる櫨の苗木は内ノ子でもあちこちで植えられているが、故郷の石岡村にも今年櫨の苗木をたくさん山に植えたという話が、風の噂うわさになって竹蔵の耳にも届いていた。それほど勢いづく製蝋だが、内ノ子で製蝋が始まったのはここ数年のことだ。

 内ノ子はかつて曽そ根ね城じょうと呼ばれる山城があった丘の南斜面にある七なの日か市いちと、麓ふもとのなだらかな所にある六むい日か市いち、その西にある廿はつ日か市いちの三区域に分かれている。内ノ子の製蝋は竹蔵が内ノ子へ来る前の年に七日市の庄屋の一族である芳我はが源六げんろくが始めたのが最初だ。
 ただ蝋打ちの技法は誰もが簡単に真似ができるものではないし、かなりの金がかかる。それに源六もその技法をわざわざ他人に伝えようとはしなかったのだろう。そのためその頃には源六の他に製蝋に手を出す者はいなかった。
 ところがその二年後、内ノ子の南にある古ふる田た村むらの綿わた屋や善六ぜんろくと善ぜん太た郎ろうの親子が、伊予いよ灘なだの向こうの芸州げいしゅうから蝋打ち師二人と蝋を日に晒さらす晒し職人一人を招いて蝋打ちを始めた。その技を見せてもらった山冨屋の主人庄兵衛しょうべえは、早速翌年から製蝋を始めることにした。
 庄兵衛は綿屋に頼んで丁でっ稚ちの一人を蝋の晒し作業に使ってもらい、それと同時に芸州を訪ねて苦労の末に蝋打ち師を二人呼び寄せた。それで竹蔵は製蝋の仕事に回されたのだが、そのあと訳あって製蝋から離れろうそく職人の見習いになった。
 今からちょうど一年前、竹蔵は親方の言いつけで六日市の庄屋坪つぼ田た喜左衛きざえ門もんの屋敷へろうそくを届けに行った。すると現れたのは大洲へ奉公に出されたはずのお志乃だった。お志乃は大洲へ行くのをやめて、喜左衛門の下女として働いていた。
 思いがけない再会に二人は抱き合って泣いた。しかしゆっくり話をしている暇もないので、六日市で市が立つ日を利用して月に二度だけ八幡はちまん神社で逢あうことにした。本当は堂々と逢いたいところだが、竹蔵はまだ見習いの身分だし、お志乃も庄屋の下げ女じょである。大っぴらに顔を合わせられる立場ではないので人目を忍んでの逢おう瀬せだ。
 以前のようには動けないが今の二人には望みがあるし、二度と逢えないはずだったと思えば夫婦になるまでの辛抱など大したことではない。今日など八幡さまからイチョウの葉っぱを戴いただいたのだ。心は弾むばかりで何の不安もなかった。

     四

「そこの太い眉毛の兄にいやん、どがいぜ? この魚、七輪しちりんであぶっちょるけん、いっぺん食うとうみ。まっこと美味うもうてほっぺたが落ちるぜ」
 真っ黒に日焼けした親おや爺じが、焼いた干し魚の切れ端を持った手を竹蔵に差し伸ばした。親爺の横には七輪が置かれ、辺りに漂う香ばしい匂いが食欲をそそる。
 けれども竹蔵は親爺を無視した。銭などないし、親爺の物言いが気に入らなかった。竹蔵が相手にしないので親爺は少しむくれたが、すぐに次の客を見つけて声をかけた。
 通りに並ぶ市の出店は買わずとも見ているだけで面白い。
 積み上げられた野菜や山菜の向こうで、老婆が鼻をほじりながら退屈そうに客待ちをしている。そうかと思えば、やたらに明るい若い男が怪しげな膏薬こうやくの壺つぼを掲げて甲高い声を張り上げている。
 古着屋の年増の女は年老いた女の客にどう見ても安物の古着を広げてみせ、それがいかに上等なのかを説いている。その隣では気弱そうな男が可愛げな小間物を売っているが、客の女たちからもっとまけろと迫られて今にも泣きそうな顔だ。
 鍬くわや鎌などの農具を売る年配の夫婦らしき二人はどちらも耳が遠いらしい。二人で客に頓珍漢とんちんかんな受け答えをするので、横で茶碗を売っていた老人が見かねて口を挟んだが、この老人もやはり耳が遠いようでまたもや客とは違うことを大声で叫んでいる。
 笑いを堪こらえながら竹蔵は胸に抱えた風呂敷包みを持ち直した。中には八幡はちまん神社の社務所でもらったろうそくの燃え残りが入っている。
 木蝋もくろうはとても高価なので、ろうそくを作るのが生業なりわいのろうそく師といえども己のろうそくを作るのは容易なことではない。そこであちらこちらの寺社からろうそくの屑くずをただでもらい受け、それを新しいろうそくに作り直しているのだ。
 といっても、できたろうそくのほとんどは世話になった寺社へ礼として配るので、手元に残るろうそくはわずかだ。それでも繰り返せば少しずつ増えるので、自分たちで使う他は人にやったり銭に換えたりできる。だから寺社廻まわりは見かけ以上に大切な仕事なのである。

 突然、後ろで騒ぎ声が聞こえた。売主と客のやり取りではない。何だろうと思って竹蔵が振り返ったところに、いきなり走って来た男がぶつかった。
 咄とっ嗟さに風呂敷を抱えて守った竹蔵は、よろけて転びそうになったが何とか踏ん張った。しかし男の方は勢い余って少し先に素っ転んだ。すると男の懐ふところから飛び出したと思われるろうそくが一本、ころころと男の傍かたわらを転がった。
「どいた、どいた!」
 買い物客たちを押しのけて若い男が走って来た。先の男は慌てて立ち上がろうとしたが、若い男が飛びかかる方が早かった。若い男は逃げようとする男の腕を後ろへねじ上げると得意げに叫んだ。
「手間かけさせよって! もう逃げられんけんの。観念せぇや!」
「兄にいやん、勘弁してつかぁさい。つい出来心ぞなもし」
「勘弁するかい、この外道げどされが!」
 若い男が後ろ手をさらに捻ひねると、盗人ぬすっとは顔をゆがめて呻うめいた。
「源げん太た、人前であんまし手荒な真似はすんな」
 人混みの中からひょっこり現れた老人が声をかけると、若い男はぺこりと頭を下げた。
 老人は目明かしで茂も作さくという。普段は髪かみ結ゆいの仕事をしており、手下てかの源太は茂作の髪結いの弟子だ。いつもの茂作は好々こうこう爺やだが、目明かしになると別人の顔になる。口をへの字に曲げた茂作が顎で指図をすると、源太は男を引き立てて人混みの中へ消えた。
 竹蔵は落ちていたろうそくを拾うと茂作に差し出した。
「茂作親分、これ、さっきの男ひとが落とした物もんです」
「おぉ、百もも屋やの竹蔵か。あの罰ばち当たりは八幡さまのろうそくを盗みおってな。たまたま見つけたんやが、捕ちゃかまえられてよかったわい」
 ありがとよとろうそくを受け取った茂作は、相好そうごうを崩して好々爺の顔になった。八幡さまと聞いた竹蔵は肝を冷やしたが、盗人が捕まってよかったと笑顔を見せた。

     五

 野次馬が散り、茂作が源太の後あとを追っていなくなると、近くにいた男が駆け寄って来た。男の額には八の字の眉が広がっている。
「竹蔵! お前まい、がいじゃのう」
 男は山冨やまとみ屋やの手て代だい、留七とめしちだ。
「内うちノの子こで捕り物見るなんぞ、あっしゃあ生まれて初めてぜ。ほれにしてもお前まい、茂作親分に盗まれたろうそくを戻したんやもんな。まっこと大したもんぜ」
 留七は興奮した様子で竹蔵を褒め称えた。
「おら、落ちとる物もんを拾て渡したぎりですらい」
 竹蔵はこそばゆかったが興奮しているのは留七と同じだ。一応は謙遜したものの、何となく鼻息が荒くなっている。
「けんど、あの男はおらにぶつかって転びよったけん、ぶつからなんだらあのまま逃げとったかも」
「ほんまか? ほんじゃあ、あの男はお前まいが捕つらまえたようなもんやないか。竹蔵、こりゃあまっことがいなことぜ!」
 留七は八の字の眉を目一杯広げたが、すぐにその眉を引き寄せた。
「ところで、今日はどがいした? お園そのの顔を見に来たんか?」
「いんや、違います。今日はろうそくの燃え残りをもらう日なんです」
「ああ、ほうか。ほうやったな。今日は一日ついたちじゃった」
 百もも屋やでは毎月一がつく日に、それぞれ六むい日か市いち、七なの日か市いち、廿はつ日か市いちの順で寺社からろうそくの屑くずを集めていた。さっきもお志乃に逢あう前に八幡はちまん神社でろうそくの燃え残りをもらったばかりだ。

「ほんで、竹蔵。お前まい、お園のこと聞きたいんか?」
 留七は惚とぼけ顔で言った。
「え? 別に、おら――」
「ほうか、聞きたいんか。ほうかほうか」
 竹蔵が何も答えてないのに、留七は一人で勝手にうなずいた。
 お園とは百屋の親方百もも次じ郎ろうの一人娘のことだ。器量よしの明るい娘だったが、去年の秋に百次郎との壮烈な親子喧げん嘩かの末、家を飛び出して山冨屋の住み込みの下女になった。それから家には一度も戻っていない。
 庄兵衛は百次郎に何も言わずにろうそくの依頼をしてくれるが、百次郎の方は庄兵衛に頭が上がらない。たまに庄兵衛と顔を合わせることがあっても、ずっと頭を下げ続けていた。親方がそんな感じなので、見習いの竹蔵も山冨屋の者と会うのは気が引けてしまう。それにお園の話はしたくないし聞きたくもない。
 お園は親方の娘なので気にならないわけではない。しかし竹蔵はお園に嫌われていた。だから好きなようにすればいいし、どうなったところで自分には関係がないという気持ちが強い。なので無理に喋しゃべらせようとする留七には当惑するしかなかったが、まさかお園のことなどどうでもいいとは言えなかった。

「ほれで、お園さんは元気にしよるんですか?」
 仕方なく竹蔵が訊たずねると、留七は八の字を広げてにんまり笑った。
「竹蔵、お前まい、そがいにお園のことが気になるんか?」
 話を始めたのは留七なのに何だか話が噛かみ合わない。竹蔵がためらいがちにはぁと返事をすると、留七は腕組みをしてほうじゃろほうじゃろとうなずいた。
「やっぱしお前まいもお園には早はよ戻もんてほしいわいな」
 そんなことは思っていないが、そう答えて留七を面白がらせるのも癪しゃくだ。それで竹蔵は親方の弟子として当たり前の言葉を口にした。
「お園さんがおらんと親方やおかみさんが寂しそうですけん」
 留七はほうかほうかと言うと、尚なおもお園の話を続けようとした。うんざりした竹蔵はすかさず話を変えた。
「ところで留とめさんはここで何をしておいでるんですか?」
 留七の後ろには山冨屋の大きな看板が見える。だがこちらは紙問屋の方の山冨屋だ。留七は製蝋せいろうの山冨屋の手代であり、お園が下女をしているのも同じ製蝋の店たなだ。
 六むい日か市いちは七なの日か市いちと比べるとなだらかではあるが、町全体が東西に伸びる丘陵の裾すそに載っており、町の北側が南側より高くなっている。竹蔵たちがいる通りから北へ上のぼると旧道である後小路うしろこうじに出るが、製蝋の店があるのは後小路なので留七がこちらの道にいるのは妙だった。
「実はな、仁助じんすけを探しよるんよ」
 留七は広げていた八の字をきゅっと窄すぼめて言った。仁助は竹蔵と一緒に山冨屋の丁でっ稚ちになった男で、今は蝋打ちの三さぶ郎ろう太た親方の相方として働いている。以前は竹蔵とも仲がよかったが、蝋打ちの仕事を始めてからは折り合いが悪い。
「お前まい、こっち来る時、仁助を見かけなんだか?」
「仁助ですか? 気きぃつかんかったですらい」
 会いたいとは思わないし会うこともないのだが、仁助に何かあったのだろうかと竹蔵は少し気になった。留七はほうかとがっかりしたが、すぐに笑顔になった。
「まぁ、仁助はええわい。ほれよりお園のことな、あしが何とかしよわい。ほじゃけんお前まいは安心して待っとれ」
 またお園のことを言われて竹蔵は戸と惑まどったが、留七は竹蔵の肩を叩たたいて得意げに八の字を広げた。

     六

 留七と別れたあとも、竹蔵は当惑気分が覚めやらないまま禅昌寺ぜんしょうじへ向かった。もちろん燃え残ったろうそくをもらい受けるためだ。
 市で混み合う道を東へ進むと、道が右へ分かれる丁てい字じ路ろが現れる。そこを曲がると小田おだ川がわに出るのでこの道は沖小路おきのこうじと呼ばれているが、禅昌寺はその途中右手にある。
 丁字路を沖小路に入らなければ、通りは竹藪たけやぶに突き当たったあと左へ折れて上り坂となり、後小路うしろこうじと合流して丘の上にある七なの日か市いちへと続く。この日は六むい日か市いちの寺社を廻まわる日なので、竹蔵は沖小路を下った。
 禅昌寺の南は田んぼがあるだけなので、ゆったり流れる小田川を境内けいだいから一望できる。沖小路の先は河港になっていて船ふな問どん屋やがあり、岸辺は筏いかだの荷物を積み降ろしする人足でいつも賑にぎわっている。朝はここから荷物が送り出されるが、今は川下から綱で引かれて来た筏の荷物を降ろしているところだ。
 内うちノの子こに集められた紙やここで作られた木蝋もくろうは、この川を使って大おお洲ずや海の向こうの大坂おおさかまで運ばれる。そのことを考えると、竹蔵は自分が凄すごいことに関わっているのだと少し気持ちが高ぶってくる。
 対岸に目を遣やると、左手に見える広い知ち清せい河原で子供たちが川に石を投げたり水辺を走ったりして遊んでいる。とても長閑のどかな眺めだが、去年はここで大きな騒動があった。

 ちょうどお盆が始まる頃、知清河原は隣の松山まつやま領にある久万くま山やまから逃散ちょうさんして来た百姓たちであふれかえった。その数は三千近くもあり、人はそれを久万山騒動と呼んだ。
 享保きょうほうに起こった大だい飢き饉きんで松山は九万五千の飢き人じんと五千七百もの餓死者を出した。久万山においては飢饉以来そこに暮らす者が三千人以上減るという悲惨な状況にあった。
 飢饉のあとも米の不作は続き、米の価格は信じられないほど高騰した。久万山では米があまり取れないので年貢は米価格に応じた銀で納めていたが、多くの銀を支払うことになる米価格の高騰は久万山の百姓たちを打ちのめした。さらには特産品のお茶の価格が下落したので、百姓たちは悲鳴を上げた。
 そんなところに紙漉すきと楮こうぞの収穫を城に強要されたが、求められた量は実情を無視したものだった。収穫量が足らない楮は他の地域から買い求めねばならず、強制義務となった紙漉きは本業の農作業よりも優先させられた。
 あまりの事に百姓たちは窮状を訴え出たが、役人たちは対処しようとしなかった。それで百姓たちはとうとう集団で逃げ出し久万山騒動となったのである。

 久万山から逃げて来た百姓たちに対し、内ノ子の者たちは庄屋の指示に従って炊き出しをしたり寝場所を作ってやったりした。けれども百姓たちが河原に滞在したのは一晩だけで、翌日には大洲の殿さまに助けを求めに移動した。松山の奉行や代官が大慌てで駆けつけたが、百姓たちは耳を貸さずにぞろぞろと大洲へ向けて歩いて行った。
 この騒動の際に竹蔵たちも百姓たちの世話を手伝ったのだが、百姓たちが立ち去ると何故かお園は暗い顔を見せるようになった。以前は優しく明るい娘だったのに、この騒動以来少しのことで泣いたり怒ったりした。理由わけを訊きいても何も言わず、両親に叱しかられても反発する始末だ。
 周囲との関係が悪くなっていくお園を見ていられず、竹蔵は何度もお園に話を聞こうとしたが、その都度つどお園はうんざりした様子で竹蔵を無視した。そして終しまいには怒って竹蔵を罵ののしり、ほんなへんちくりんな顔なんぞ見とうないと言ってそっぽを向いた。
 竹蔵が百次郎親方の弟子になった頃、お園は竹蔵に優しかった。お志乃と再会するまでの間、お園の優しさは竹蔵の慰めとなっていた。だからお園のことを案じたのに、そのお園からまさか顔のことを言われるとは思ってもいなかった。お園は父親の弟子として世話をしてくれただけで、本当は疎うとまれていたのだと竹蔵は深く落ち込んだ。
 お園の機嫌が悪くなったのも、嫌な自分と一緒にいるのに耐えられなくなったからなのかと考えると竹蔵はつらかった。親方やおかみが時折寂しげないろを浮かべると、堪たまらない気持ちになって居たたまれなくなった。そんな竹蔵にとってお志乃との逢おう瀬せは唯一の安らぎだった。なのに嫌なことを思い出させた留七を竹蔵は恨んだ。

 気持ちが沈みがちのせいか、禅昌寺の和尚との話が長くなった。外に出ると日は西に傾き、ひしめき合うように並んでいた市の出店がまばらになっている。後小路へ出るため右手の狭い路地に入ると、前から若い男女がふざけ合いながらやって来た。
 路地の中ほどで二人と対たい峙じする恰好かっこうになった時、あ――と三人が同時に声を上げた。仲睦なかむつまじい男女は仁助とお園だった。
 お園は慌てて仁助の後ろに隠れようとしたが、無駄だとわかったのか、口を尖らせて姿を見せると悪態をついた。
「もう、竹たけさん。なしてこがぁな所とこにおるんよ。嫌やわぁ」
 竹蔵は石のようになった。顔は強こわ張ばり胸はどきどきしている。体中から引いた血が汗となって噴き出すみたいだ。
「そげな目で見んでくれん? うちは茶碗を買いに来ただけじゃけぇ。仁じんさんとはそこでたまたま一緒になったんよ」
 不機嫌を隠さないお園に何も言えず、竹蔵は下を向いた。すると仁助は竹蔵をからかった。
「竹蔵、折角せっかくお園と一つ屋根の下で暮らしよったのに残念じゃの」
 竹蔵は仁助を昔は気のいい奴だと思っていた。それが三郎太親方の弟子になって以来、仁助は性格がねじ曲がってしまった。ろうそく作りを女おな子ごの仕事だと馬鹿にするし、竹蔵に憎々しげな目を向けるようになった。
「仁さん、何言うとるんね。なして竹さんが残念なんよ?」
 訝いぶかしげなお園に仁助は楽しげに言った。
「あのな。竹蔵はの、山冨やまとみ屋やにおった頃からお前まいに惚ほれとったんぜ」
 顔を引きつらせたお園は、竹蔵を横目で見ながら文句を言った。
「やめてや、そげなよもだは。妙ちくりんなことばっかし言わんで」
「よもだなんぞ言うとるかい。前にこいつに惚れた娘の名を訊いたら、はっきり言うたんぜ。おらが惚れとる娘はお園ていうんよ――てな」
 ずっと忘れていた話だった。仁助の方から惚れた娘の名を教え合おうと言いだしたのだ。一度は断ったがあまりにしつこいのでお志乃の名前を教えてやったのである。だがそれを仁助はお園と取り違えているようだ。また卑怯ひきょうなことに仁助は自分が惚れた娘の名前は喋しゃべらなかった。それは仁助こそがお園に惚れていたからだろう。
 ちらりとお園を見ると、やはりうろたえている。嫌いな男に惚れられて嬉うれしいわけがないのだ。かつてお園の優しさに惹ひかれたことが竹蔵は情けなく悲しかった。それでもこのまま恥をかかされっ放しにはなりたくない。竹蔵は顔を上げて言った。
「確かに誰っちゃ知らん内ノ子では、お園さんの笑顔と優しさぎりがおらの支えでした。親方に弟子入りしてお園さんの傍ねきにおれるようなった時はまっこと嬉しかったし、お園さんが芯をこさえてくれたり声かけてくれたりしたけん、厳しい修行にも耐えられました。ほんでも今言うたことは忘れてつかぁさい。おらも忘れますけん」
 目を見開いたお園は半分開けた口を震わせている。声も出せないほどぞっとしているのだろう。竹蔵は少しは胸が空すいた気分になれたが、お園の様子に落ち込みそうにもなった。けれどこれ以上は無益な言い争いなどしたくないので、二人の脇を抜けて後小路へ向かった。すると案の定、後ろから悲壮な感じのお園の声が追いかけて来た。
 しかし竹蔵は振り返らずに後小路へ向かった。お志乃に逢あえた喜びを台なしにされ、頭の中は腹立ちでいっぱいだった。